人間にとって成熟とは何か - 曽野 綾子

品がある人に共通すること - 思ったことをそのまま言わない

一人前の大人は、必ず心に思ったことと、表現の間に意識的な落差を生じているものなのである。人は、表現にどのような落差を作るか。体裁を作るということがその第一の目的だ。

品がある人に共通すること - 心は開くが、けじめは失わない喋り方

品は、群れようとする心境を自分に許さない。自分が尊敬する人、会って楽しい人を自分で選んで付き合うのが原則だが、それはお互いの人生で独自の好みを持つ人々と理解し合った上で付き合うのだ。単に知り合いだというのは格好がいいとか、その人といっしょだと得なことがあるとかいうことで付き合うものではない。

品を保つというのは、一人で人生を戦うことなのだろう。それは別にお高く止まる態度を取るということではない。自分を見失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべき点とを明確に見極め、その中にあって、決して流されないことである。この姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のようでなければならない。この比喩は決して素敵な光景ではないのだが、私は川の中の杭という存在に深い尊厳を持っているのである。

世の中の災難、不運、病気、経済的変化、戦争、内乱、すべてがボロきれかゴミのようになってこの杭にひっかかるのだが、それでも杭はそれらを引き受け、朽ちていなければ倒れることなく、端然と川の中に立ち続ける。これがほんとうの自由というものの姿なのだと思う。この自立の精神がない人は、つまり自由人ではない。

品というものは、多分に勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。受けるだけでなく、与えることは光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるようになるものである。

「自分さえよければいい」という思いが未熟な大人を作る

私は昔から、カトリックの信仰を基準にした教育を受けた。神の前には、人間世界の地位や名誉や財産など、全く無意味なものだ、という意識を徹底して育てる教育である。私達は、やや昔風の言い方が、「王様の前でも乞食の前でも、等しく同じ態度で接する」ことができるようにしつけれたのであった。

つまり偉い人だからといって、その前に出ると萎縮して自由に喋れなくなるということもなく、乞食の前に立ったからといって急に相手を見下すような無礼な態度も取らず、同じように礼儀正しく、人間として誠実に、温かい心で接することが出来るように、ということであった。

威張る人というのは、一見、威張る理由を持っているように見える。地位が上だとか、年を取っているとか、その道の専門家だとか、それなりに理由はあるだろう。

しかしほんとうに力のある人は決して威張らない。地位は現世で仮のものだからである。誰がほんとうに偉いか、その優越の差があるのかどうかは、神仏が見極められることだ。年寄りだって弱い年寄りほど椅子に座って偉そうにしている。

つまり総じて威張る人というのは、弱い人間なのだ。

もちろん人間は誰もが強くなければならないということはない。古来、弱そうだから男にもてた女性はいたのだ。しかし本来強くあるべき男が、地位を利用して威張るのは最低の表現で弱さをさらけ出すことだし、「うちの夫は銀行の同期で出世し頭なの」とか、「私はクラス会で一番若いって言われたわ」などという女性には、私はどう返事をしていいかわからなくなる。

私は母から、最低限、威張らないことで、みっともない女性にならずにいる方法を習った。威張るという行為は、外界が語りかけて来るさまざまな本音をシャットアウトする行為である。

しかし謙虚に、一人の人として誰とでも付き合うと、誰もが私にとって貴重な知識を教えてくれる。それが私を成熟した大人に導いてくれる。

存在感をはっきりさせるために服を着る

霞ヶ関の住人は「できない理由を素早く言うことのできる秀才」だと私は初め言っていたのだが、ある人がそういうのはペーパー秀才に過ぎず、与えられた問題の解答は出せるけど、この世で何が問題かを考えることは全くできない人だ、と教えてくれた。

自分を見失わずのいるためには

世界を意識した地理的、時間的空間の中に自分を置き、それ以上でもそれ以下でもない小さな自分を正当に認識できることが、実はほんとうの成熟した大人の反応なのだと思う。

他人を理解することはできない

世間からどう思われてもいい。人間は、確実に他人を正しく評価などできないのだから、と思えることが、多分成熟の証なのである。それは、自分の中に人間の生き方に関する好みが確立してきたということだ。大きな家に住んでいる人が金持ちだとか、肩書の偉そうな人がほんとうに偉い人だとか、信じなくなることだ。そのついでに、相手に自分をほんとうに理解してもらおうとする欲望もいささか薄くなることでもある。

不純な人間の本質を理解する

まず私の実感を述べておこうと思うのだが、もし人生を虚しく感じるとしたら、それは目的を持たない状況だからだと言うことができる。

たとえば高齢者に多いのだが、朝起きて、今日中にしなければならない、ということが何もない。だからどこへ行ったらいいのか、何をしたらいいのかわからない。どうして時間を潰そうかと思う。時間というものは皮肉な「生き物」で、することがたくさんある健康人にとっては素早く経っていくものなのに、することのない人や病人には、極めてのろのろとしか経過しないものなのである。